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嶺岡牧 発掘会?

ロマンが目の前にある。

という感じ。

地元学というのを大昔にやっておりましたが、

地元発掘学という感じ。

早々、来年1月には次回のお勉強会を実現させよう!と、

模索中らしいです所。

マイクロ微力を影でこっそりお手伝いしたい。


以下「△」長文。

王国にいらしてちんまりお出迎えをしている重機のそばに

ひっそりと「馬とり場」という看板が立っています。

ここは江戸時代幕府直轄の馬の放牧場だったということは

既にご存知ですよね。

この放牧場「嶺岡牧」は明治に入ってからも存続し、

軍馬の放牧から、乳牛の放牧へと姿を変え、

経営もピーピーしながらも続けられていました。

場所も、地元の区に切り売りされたりして、

現在は、酪農の里の場所を残すのみとなっております。


今回のお勉強会は、1段は郷土資料館にて、

2回目は、大山研修センターで行われました。

貴重な、地図や写真を駆使しながらいろいろな説明を

郷土資料館学芸員 石川先生がお話してくださいました。


王国的には、まず、明治時代の王国「馬取り場」の写真ですね。

生け垣の下に馬が十数頭…数十頭いて、

その上に人がウジャウジャしている写真です。

当時、「馬取り」は一大イベントだったんでしょう。

市が立ち、そこでいろいろなものが売買されていたそうです。

馬の競売をしながら、あわのわやっているイメージですね。

人もうじゃっってますが、馬もうじゃっております。

馬とり場はさらに4つに土手で仕切られており、

年齢別や種類別に分けられそれぞれ集められました。


実はこの馬追いなかなか大変そう。

嶺岡牧の広さは、一戦場講演から平久里のあたりまで。

今のR410をはさみ、東を東牧、西を西牧と呼んでいたそうです。

さらに東、西を2つずつに分け、

東の上下、西の1と2とわけていました。

そして馬とり場は、東西に1か所ずつあります。

西牧は、平久里あたりから、宮山(R410から西側)二手に分かれ

野に放たれた馬を王国まで追い込んでいくんですよ・・・。

えっちら追い込んでいきます。

楽しそうだけどえらいこっちゃです。

当時の地図は、江戸時代(享保10年 1725年)に書かれたものの

写しがのこっていて、現在郷土資料館にて展示されています。

この地図、長さが約3mとかなり巨大。

さらにすごいのは、明治時代の陸軍作成の地図と

生垣の位置がほぼ一致するという正確さ。

山の形も特徴を取られていて面白い。


江戸幕府直轄の牧は全部で4つ、

千葉県には他にも2つあって、佐倉牧、小金牧があります。


馬の種類を知るために焼印の形の資料が残っていました。

馬にしてみれば強制的にやけどさせられるのでかわいそうですが。


嶺岡の馬用の焼き印だけ産地別に押されいて、

品種改良もしていたんじゃないかと考えられるそう(他は場所別)。

日本の在来種の他にも、アラブ系のペルシャの馬など

西洋馬もいたらしく西洋風の馬術も研究されていたという

背景にあったかもしれないですよね。

あばれんぼう将軍が西洋馬術というのも

違和感ばりばりでおっかしいですがね。

しかし、焼印の一つの「駄馬 △」ってあって

雑種とかちょっといまいちくんってことらしいのですが、

なんともかわいそうな話です。

こちらの牧の管理は、幕府の役人もいますが、

基本的には、農家のみなさんが、担当されていたようです。

牧に隣接する集落が担当で、石垣の修理などを行っていたそうで、

細かく区分けされています。

あと、賭博など、幕府管轄の牧内で行うことは禁止していたそうでう。

ぷぷ。

まぁ、娯楽の少ない時代ですからね。

他にも、この嶺岡には、馬頭観音の数が多く、
県下で一番大きな馬頭観音があるそうですよ。

とりあえず、すごく丁寧な資料もいただけるので

郷土資料館へGO!です。





しかし、軍馬だーっ!!とかってやっている間に、

(実際の時代的にはもうちょっと先になりますが)

世界史年表みながらみると、日本・・・のんびりしてる。

というか・・・項目・・・すくない・・・。

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